2012/01/27
扶氏医戒之略(緒方洪庵)~覚書
一、人の為に生活して己のために生活せざるを医業の本髄とす。安逸を思はず、名利利を顧みず、唯おのれをすてゝ人を救はんことを希ふべし。人の生命を保全し、人の疾病を復活し、人の患苦を寛解するの外他事あるものに非ず。
一、病者に対しては唯病者を視るべし。貴賎貧富を顧ることなかれ。一握の黄金を以て貧士双眼の感涙に比するに何ものぞ。深く之を思ふべし。
一、其術を行ふに当ては病者を以て正鵠とすべし。決して弓矢となすことなかれ。固執に僻せず漫試を好まず謹慎して、眇看細密ならんことを思ふべし。
一、学術を研精するの外、言行に意を用いて病者に信任せられんことを求むべし。然れども時様の服飾を用い詭誕の奇説を唱へて、聞達を求むるは大に恥じるところなり。
一、毎日夜間において更に昼間の病按を再考し、詳に筆記するを課程とすべし。積て一書をなせば、自己の為にも病者のためにも広大の脾益あり。
一、病者を訪ふは、疎漏の数診に足を労せんよりは、寧ろ一診に心を労して細密ならんことを要す。然れども自尊大にして屡々診察するを欲せざるは甚悪むべきなり。
一、不治の病者も仍其患苦を寛解し、其生命を保全せんことを求むるは医の職務なり。棄てて省みざるは人道に反す。たとひ救うこと能はざるも、之を慰するは仁術なり。片時も其命を延んことを思ふべし。決して其の死を告べからず。言語容姿みな意を用いて之を悟らしむることなかれ。
一、病者の費用少なからんことを思ふべし。命を与ふとも命を繋ぐの資を奪はば亦何の益かあらん。貧民に於いて茲に甚酌なくんばあらず。
一、世間に対しては衆人の好意を得んことを要すべし。学術卓絶すとも言行厳格なりとも、斉民の信を得ざれば之を施すところなし。普く俗情に通ぜざるべからず。 殊に医は人の身命を委托し赤裸を露呈し最蜜の禁秘をもひも啓き、最辱の懺悔をも告ざることは能はざる所なり。常に篤実温厚を旨として多言ならず、沈黙ならんことを主とすべし。博徒、酒客、好色、貪利の名なからんことは素より論をまたず。
一、同業の人に対しては之を賞すべし。たとひしかること能はざるも勉めて忍ばんことを要すべし。決して他医を議するなかれ。人の短をいふは聖賢の明戒なり。彼が過を挙るは小人の凶徳なり。人は一朝の過を議せられておのれの生涯の徳を損す。其の得失如何ぞや。各医自家の流有て、又自得の法あり。慢に之を論ずべからず。老医は敬重すべし。少輩は愛賞すぺし。人もし前医の得失を問ふことあらば勉めて之を得に帰すべし。其冶法の当否は現症を認めざるは辞すべし。
一、治療の商議は会同少なからんことを要す。多きも三人に過ぐべからず。殊に其人を択ぶべし。只管病者の安全を意として、他事を顧ず、決して争議に及ぶことなかれ。
一、病者勝曾て依託せる医を舎て、密かに他医に商ることありとも漫に随うべからず。先其医に告て其説を聞にあらざれば従事することなかれ。 然りといへども、実に其誤冶なることを知て、之を外視するは亦医の任にあらず。殊に危険の病に在りては遅疑することあるなかれ。
右件十二章は扶氏遺訓巻末に附する所の医戒の大要を抄訳せるなり。書して二三子に示し、亦以て自警と云爾。
安政丁巳春正月
公 裁 誌
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